知り合いに今まで作って来た物を見せると結構な確率で聞かれる。
「なんでこれを作ろうと思ったの?」
「どうして、これを作ったの?」
「…そこにフェルトがあったから。」
「なんとなく。」
「いけるかなあと思って。」
納得してくれない。
それで、気付いた。大人にはいちいち理由がいるんだなあと。いな、思い出した。谷川俊太郎さんの『理由なき喜び』というエッセイ(?…だったかなあ。)の中に書いてあった。
「どうして、キャスケットウイッグを作ろうと思ったの?」
「ヘアドネーション待ちのつなぎ。(わたし待っていないけれど。)」
「・・・なんで作ろうと思ったの?」
(いま、言ったよね?( ̄▽ ̄;))
要は。その発想は、どこから来たのかが気になるんだろうなあと思った。
人は、その人が『なにをしたのか』の「結果」でのみ相手を判断材料にするくせに。(もとい、割に。)
そこに行くまでの段取りばかりを聞いてくる。
ああ。だからか。
一度友人とnote.の話になったとき。
「プロフィール欄に、留学をしようと思ったきっかけとか(を書いている人が多いけれど、あれ本当、)どうでもいい。(だいたいそれを書いている人の文章が、なっげえ。読めない。巻物!?…というレベルが多い。私の親指姫が親指、骨折しちゃうよお~(´Д`)…が多いので、よっぽど気にならない限り読まない派。なにをして。なにに喜びを得ているのかの方がよっぽど気になるし。)」
と、世間話程度に話をして笑われた事があった。
私は、私自身のきっかけなんでどうでもいい。だからプロフィールもゆるい。(これを読んだ後に、見に行かなくていいからねっ)
だけど、ときには。
ちゃんと理由を思い出して。(思い出す時間があるならその間、進みたい派(/・ω・)/家♪)
きっかけを言わねばなるまい。
それは、わたしを止める外野のためではなく。
ずっと、ずっっと。あいしてくれる人のために。
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