北浜の大ばか者。

ちゃんとしたやつ。

汝、足元の泉をここ掘れわんわんという事で。

お金のかからない趣味、ただで行ける所の代表格として図書館を巡っていたら。

(元々は『永田キング』という本からでした。そこから推しのバスター・キートンの自叙伝を、買うかどうしようかをなやむ前に、軽くみてみたいと思ったのもきっかけです。調べたら、その自叙伝は、日本一大きな所(府立図書館)にしかないという所から。買えば良いんだけれど。買ってまで読みたいのか、内容的に読めるのか分からないので。色々と。くるくる。周り〜の。歩き〜の。)

色々、巡って。巡り巡って。なんとなく。

府立図書館と、マブダチの図書館の。
 …隣の、建物に入ったら。(隣かいっ(^_^;))

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この図書館の
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マブダチの図書館の、
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…隣りにある建物がこちらです。
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がお〜𓃬𓃭

【展示室】という所があって。

入ったら、違和感を感じた。

 後から言語化をすればその違和感は、中之島公会堂の竣工日(建てられ始めた年)と、中之島公会堂を作るのに寄附をした男性の生年月日(生まれて〜お亡くなりになるまでの年)に すごく違和感があって。あれ〜?

ああ。そう言えば。

何か聞いたことがあるかもしれない。

家族に、株はやるなよおと言って自ら命をたった人。

何処かで聞いたことがあるような気がする。

ビーバップ・ハイヒールかなぁ…かつてあったハイヒールさんの深夜番組で観たのかなあ

 そう。ふらっと訪れた場所で私が感じた違和感は、中之島公会堂が『出来た年』と、『寄附をした人物のお亡くなりなった年』が違ったからだ。

公会堂が出来てからお亡くなりになっているのではなく。完成前に、その生を終えている。

 なんか変。ご病気?

 中之島公会堂が完成する2年前に、その生涯を39年で終えていた。

なんでだす。

私の疑問はいつも魚の小骨のようだ。

放っておいても大丈夫。

誰かといると、この引っ掛かりを取りこぼしてしまう。

別に取りこぼしても何の支障もないのだけれど。

今こうしてあの時、感じた違和感を言語化してみると、細かいことが気になる性格なのは相棒の杉下右京さんだけではないらしい。

なんでお亡くなりなったのかというと、お父さんの遺産を寄附して社会貢献をしたいと。株の仲買人として、みんなが困っている時に助けて、『北浜の大恩人』と呼ばれて。

 渋沢栄一は、90歳まで長生きしているんけど、その渋沢が70歳で引退をしていて。引退後、渋沢栄一なんとか実業団みたいな。当時の若手の実業家たちを引き連れてアメリカを3ヶ月間、色々と見て回った。70歳で3ヶ月アメリカをぐるぐるする渋沢さんの体力すごいね。

その、若手の実業家の中に『岩本栄之助』という北浜の大ばか者が居た。私は、彼のことを少しだけ現代的価値観から否定しようと思う。

(現代的価値観で、過去の人を否定したり批判したりするのは、ちょっと違うかなあと思うので。その時代の感覚を掴むために、どうも気になるので。なんでだろうと思うので。私は、この展示室(中之島公会堂の展示室)に3回訪れた。そして、OSEギャラリーと関係ないかもしれないけれど『企業家ミュージアム』にも訪れた。【※後述】

 だけど、その日に限ってOSEギャラリーが何かの研修とかでいつもより早く閉まって、ズッコケた
(-_-;)
 守衛のおじさまに、ごめんよおと言われた。
仕方がないので、五代友厚の後頭部だけ、撮ってきた。)

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おディーン様こと、五代友厚さんのこの哀愁漂うお背中が、私にドンマイと言っているようであった。(ー_ー;)

 だから今は、自分の価値観が間違っていると分かっているけれど。それ以外にものさしがないので。なんかそれ違うんじゃないのかなぁと思うことを、現代的価値観で言おうと思う。

 北浜の大ばか者は、渋沢エーイチたちとアメリカをぐるぐるしている時に、お父さんの訃報を聞いてすぐに日本へ戻った。だから最後までアメリカをぐるぐるしていない。

日本に戻ったバカ息子は、お父さんの跡を継いで株式の仲買人となった。株のことはよく分からないけれど、みんながやっていることの逆のことをやって、儲けた。(先物取引とかいうやつらしいよ。まだ『物』はないけれど、『来年これくらいは儲かるよねえ』というのを見越して、先に取引するんだってさ。え、それお米とかなら天気とか台風とか、争いごとに左右されないのかな?

 東京リバティブみたいな、名前の。

 リバーシブルとクレアラシルを足して2で割ったみたいな名前の。何かあるらしいよ。…ちゃんと調べてから言ってもらえますぅ?

(;´Д`)

…だってええ、OSEギャラリーに避けられたんだから仕方がないじゃない(;´∀`) もとい。)

 みんなが窮地に追い込まれて助けてとなると、株を売ったか買ったかして、みんなを助けた。

そして、お父さんが残した財産を寄附することにした。お母さんは、寄附するのはいいけれど ちゃんとした人を相談役にしいや。しなさいよ。それで、(他の)儲けている人が、(自分も寄附しなあかんのかなあといといけないのかなあと思ってしまうような)顔色曇らすようなことしなや。しちゃあいけないよ儲けているからって謙虚頭に乗らずでおりなさいよ的なことを言って、しっかり釘を差した。

お母さん、ありがとう。もう相談役は渋沢栄一さんと誰々さんと決めておりますと。

寄附をする話と、寄附されたお金で何をするか。何を作るかが決められた。それが、中之島公会堂だった。

 雨の日に。行ったことない図書館に行ってみようと。そして、ぐるぐるとして隣の建物の「なんか見たことある何かやなあ」と思いながら。勝手に入っていいのだろうかと思いながら。展示室 何時〜何時までみたいな看板を見つけて。知らん(よく分からない)建物にぐんぐん行った。(あなた何でそういう所は勇者なの(^_^;))

 展示室には、彼がなくなった経緯は書かれてあるけれど、どうも釈然としない。

岩本の死後、2年後。中之島公会堂は完成して、当時4歳の娘さんが中之島公会堂の鍵を市長だか府知事だかに手渡す贈答式のようなものが行われている。【2年後に4歳になった娘】ということは、2歳の娘を置いて何してんねん何をしているのよということになる。(専ら「子」の立場で考えてみたら、片親が居なくても。もしくは両親が居なくても。育つんだけどさ。┐⁠(⁠ ⁠˘⁠_⁠˘⁠)⁠┌)

 だがどうも承服できかねる。

 お金を集めたり 増やしたりすることに長けている株式仲買人ならば、格好をつけんとずに 一度 寄附金を返してもらって、その分持ちこたえて、(実際、あと1ヶ月半あれば栄之助の読みの通りになったという説もある。)更に『倍にして返す』という考え方はなかったのだろうか。誰も助けられなかったのだろうか。

 助けの手を差し伸べてくれる人はいても、その手に気付かぬまま。誰も引き上げられない程に沈んで最後浮かんでこなかったおろかもの。(華麗なる一族の万俵鉄平みたいなことをして、5日間くるしんだらしいよ。)

きっと賢い人の周りには賢い助言をしてくれる人がたくさんいて、『返してもらった分、倍にして返せ(=更に大きな金額を寄附すればいいじゃないか)』という助言をしてくれる人が居たのではないかと思う。何故なら、何の肩書きもない【クレアラシルとリバーシブルがよく分かっていない私ですら、】思いつく案なのだから。

(※OSEギャラリーに避けられたので こういった意味不明な文章は作られていくのである。ワタシナニモワルクナイ└⁠(⁠ ⁠^⁠ω⁠^⁠)⁠」家♪(⁠^⁠∇⁠^⁠)⁠ノ⁠♪(⁠*⁠ノ⁠・⁠ω⁠・⁠)⁠ノ⁠♫ 因みにOSEギャラリーとはクレアラシルとデリバリーちゃんとした株式の仕組みとか先物取引とかの『しくみ』を教えてくれる場所らしい。…己で記しておいて、ちょっとなに言ってんのか分かりませんƪ⁠(⁠‾⁠.⁠‾⁠“⁠)⁠┐。⁠.゚⁠+⁠ ⁠⁠(⁠。⁠・⁠ω⁠・⁠))

そう言えば。

バカには、『いいバカ』と『わるいバカ』がいる。

ティラ様と堀江さんの本に書いてあった。

岩本栄之助という人の生き方は、

『いいバカ』だったのにさいごは『わるいバカ』となった。

「学問しなはれ」が口癖だったのにも関わらず、彼が今まで読んできた書物の中には、『しなんでもええ方法考えなはれ』という文言は一字もなかったのだろうか。だとしたら、(もしかしたら読んでいたかもしれない)論語なんて何の役にも立たない。

 本当の教えは、生きている人間の中にある。

 北浜の大ばか者は、意地を張らんとずに一旦寄附金を返してもらって、持ちこたえて『返してもらった分〚倍にして返す〛(より多くの寄附をする)』という行為をしていたら。

中之島公会堂は、現存するものよりも更に大きくて豪華なものになっていたかもしれない。

ヘレン・ケラーにガガーリン。アインシュタイン。それ以外にも、織田信長とかも来ていたかもしれない。

 (いや、時代を逆行していてそら無理やけど(^_^;))

おわり

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